
金刀比羅宮音声ガイド
以下の内容が、選択した言語の音声で流れます
参拝概要 一段目
こんぴらさんへ、ようこそ。
この音声ガイドでは、「こんぴらさん」の愛称で親しまれている金刀比羅宮のさまざまな見どころをご案内します。
金刀比羅宮は、象の頭のような形をしていることから「象頭山」と呼ばれる山の、東側の斜面に建てられています。
参道の入り口から御本宮までは785段の石段が続き、さらにそこから583段を登ると、奥社とも呼ばれる厳魂神社に到着します。そこが本日の参拝の最終地点で、境内でもっとも高い場所にある社です。
参道の途中には、美術館や史跡、(さらには神馬)など、見どころがたくさんあります。石段を登り、ポイントに近づくと、この音声ガイドが自動で再生されます。
これから歩き始める参道は、昔から多くの参拝者が歩いてきた道でもあります。こんぴらさんの創建時期ははっきりしていませんが、約(およそ)3000年の歴史があると考えられています。江戸時代から明治時代にかけては、日本各地から参拝を目的とした人々が訪れました。以来、金刀比羅宮は四国を代表する観光地として、多くの人に親しまれ続けています。
こんぴらさんには、神社として神様が祀られています。神様の中には、古代神話に由来するものもあれば、自然の精霊や歴史上の人物に由来する存在もいます。御本宮には、神格化された崇徳天皇と、海の守り神として信仰されてきた神様が祀られています。境内には、ほかの神様を祀る末社も数多くあります。かつては仏様も祀られていたため、参道沿いには仏教建築の影響が見られる建物も残っています。
どうぞ景色を楽しみながら、ゆっくりと石段をお進みください。
一之坂+燈明堂
土産物店や飲食店が並ぶこの一角は、「一之坂」と呼ばれています。永きにわたり、参拝者に軽食やお土産を売る店が石段の周りに並んできました。
多くの店で見かけるのが、こんぴらさん名物の「加美代飴」です。扇形をした硬い飴で、ほんのりとした柚子の風味が特徴です。縁起物とされており、幸運を分かち合えるよう、小さく割るための槌が添えられています。
石段の左側には、斜面に沿って建てられた木造建築があります。中には、夜道を照らすための釣り灯籠がずらりと並んでいます。
この建物は「燈明堂」と言って、江戸時代末期(1858年)、瀬戸内海に暮らす大工や木工職人、石工、左官、屋根職人など、多くの職人たちによって寄進されました。
この建物は、熟練の大工の手で、釘を使わずに骨組みを組み上げる、日本の伝統的な工法で建てられており、石段沿いの不安定な地面でも、接合部は驚くほど正確です。また、建材には船の木材が使われており、金刀比羅宮が海や船乗りと深い関わりを持っていたことを物語っています。
ここから御本宮まで、あと617段です。
琴陵宥常銅像
この石段の右手に、休憩所を備えた小さな広場があります。
ここは、金刀比羅宮第19代宮司・琴陵宥常(1840〜1892年)の銅像があります。
明治初期(1800年代後半)、日本の港には多くの外国船が出入りするようになり、海上事故が相次ぎました。宥常はこうした状況を受け、明治22年(1889年)に大日本帝国水難救済会を設立し、海難事故における人命救助に尽力しました。
この組織は現在の日本水難救済会として、今も活動を続けています。
広場の向こうに立つ宥常の銅像は、当時の救助装備の展示を見下ろすように建てられています。
現在も、日本水難救済会の関係者や海上保安庁職員、海事関係者が、敬意を表してこの地を訪れます。
ここから御本宮まで、あと497段です。
(次は、大門です。)
大門
この「大門」は、神々の聖域への入口を示す門です。しめ縄が張られていますが、二階建ての大きな門にしめ縄が掛けられることはあまりありません。
実は、金刀比羅宮の大門は、もともと仏教寺院の門として建てられました。
境内に点在する仏教建築の、最初の一つでもあります。
(19世紀)明治初期の神仏分離令より神社となった際、「大門」にしめ縄が掛けられるようになりました。
「大門」へと続く参道には露店が並んでいますが、神域内で商いが許されているのは五つの家のみです。これらは、数百年前に「加美代飴」を作り始めた五つの家の子孫にあたります。
「大門」から御本宮まで、あと420段です。
(次は、宝物館です。)
桜馬場
大門から続く約150メートルの石畳の道は、「桜馬場」と呼ばれています。春になると両側の桜並木が見事に咲き誇り、毎年多くの人がこの景色を楽しみに訪れます。
宝物館にある(18世紀)江戸時代に描かれた参道には、桜の木陰で酒を酌み交わし、くつろぐ人々の姿が描かれています。今も昔も、人々が思い思いの時間を過ごしてきた場所です。
道沿いには、文字が刻まれた石柱や灯籠が並んでいます。これらは寄進者の名前などが刻まれています。比較的新しいものもあれば、苔むして時の流れを感じさせる古い石柱も見られます。
「桜馬場」を抜けると、再び石段が始まります。
(その先に、可愛らしい犬の銅像が見えてきます。)
宝物館
参道の右手に見えるのが「宝物館」です。ここでは、貴重な工芸品や、長い歴史の中で奉納されてきた美術品など、さまざまな宝物が展示されています。
収蔵品の中には、かつて多くの参拝者が拝んだ仏像も含まれています。中でも注目されるのが、観音菩薩の像です。この像はかつて、御本宮のすぐ近くで祀られていました。
「宝物館」で特に有名なのが、(18世紀)江戸時代に描かれた参道の絵です。当時の参道のにぎわいが細やかに描かれ、身を清めるために沐浴をする参拝者の姿なども見つけることができます。
そのほか、武士の鎧や刀といった貴重な品々も展示されています。海との結びつきが深いこんぴらさんらしく、造船業者から寄進された精巧な船模型など、海に関わる展示も数多くあります。
建物自体にも注目してみてください。切妻造りの屋根と花崗岩の外壁を組み合わせた外観には、日本と西洋の建築様式が融合しています。
設計を手がけたのは久留正道で、明治後期(1905年)に完成しました。久留は、(1893年の)シカゴ万国博覧会で日本館を設計し、その建築がフランク・ロイド・ライトに日本建築への関心を抱かせたとも言われています。
どうぞ「宝物館」の中をご覧ください。
音声ガイドの続きは、参道に戻ってから再生されます。
高橋由一館
この美術館は、日本の油絵の先駆者・高橋由一の作品を常時展示しています。高橋由一は江戸時代後期(1828年)に生まれました。当時、日本は長く海外との交流を断絶していたため、西洋美術は、ほとんど知られていませんでした。
しかし、高橋由一が青年になった頃には状況は変わりました。欧米からの新たな芸術の形に触れた高橋由一は、特に油絵に興味を抱きました。日本の伝統美術は様式化された表現が多いのに対し、西洋美術の油絵具で表現する写実性に魅力を感じていました。
高橋由一は、海外から訪れた画家の指導のもと、油彩技術を学び、近代油彩画における日本人画家の先駆者となりました。
また、日本の名所や干物・豆腐といった身近なものを題材にした風景画や静物画を制作しており、油絵が国内に広まるきっかけを作りました。
明治13年(1880年)から14年(1881年)にかけて、高橋由一は琴平町に滞在し、宮司の肖像画や『琴平山遠望』などを制作しました。
現在、金刀比羅宮は高橋由一の27点の作品を所蔵しています。参拝の途中に、ぜひお立ち寄りください。
こんぴら狗
階段の下で出迎えてくれるのが、「こんぴら狗」の銅像です。イラストレーターの湯村輝彦氏が、親しみやすくコミカルな姿でデザインしました。
「こんぴら狗」とは、自分では参拝に行けない人に代わって旅をした犬たちのことです。首輪には神社名と飼い主の住所が書かれ、旅費と寄付金を入れた袋が結びつけられていました。
「こんぴら狗」は、他の参拝者と共に旅をし、参拝を終えると、別の旅人から旅人へと預け渡され、やがて飼い主のもとへ帰ったと伝えられています。
「こんぴら狗」の名前は「ゴン」。首輪には「金刀比羅参り 受験合格祈願」と書かれています。
机に向かう学生の代わりに、忠実な犬がお参りに出たことを想像させます。
こうしたユニークな歴史から、金刀比羅宮は犬にやさしい神社としても知られています。社殿の中には入れませんが、リードを付けていれば境内を一緒に歩くことができます。
この周辺には見どころがいくつもあります。石段を登る前にぜひ周囲をご覧ください。
次は、「高橋由一館」と「神馬舎」です。
神馬舎
ここには、金刀比羅宮の神馬、「しんめ」がいます。神馬とは、神様に仕える特別な馬のことです。神が儀式の際に別の場所へ渡御されるとき、この馬に鞍が置かれ、その上に神が乗られると考えられています。人がこの鞍に腰かけることはありません。
かつては多くの神社で見られた習慣ですが、金刀比羅宮は現在も神馬を有する数少ない神社の一つです。
神馬は特定の品種と決まっているわけではなく、奉納された馬の中から選ばれます。馬を奉納する習慣は約(およそ)1300年前まで遡り、重要な出来事や祈願に合わせて行われてきました。
後世になると、本物の馬の代わりに、馬の絵や像を奉納するようになりました。これが「絵馬」の起源です。「絵馬」とは文字通り「描かれた馬」を意味し、今も多くの神社で見られます。
表書院+奥書院
金刀比羅宮で最も有名な美術品は、この右側にある表書院・奥書院と呼ばれる建物に収められています。
ここは、当時の別当(住職)の住居兼客殿として、江戸時代(17〜18世紀)に建てられました。
現在、一般公開されているのは表書院のみです。
表書院では、部屋ごとに描かれた特別な絵を見ることができます。
表書院の作品は、円山応挙、森寛斎、邨田丹陵といった名だたる絵師によって描かれています。
庭に面した部屋は、(18世紀)江戸時代中期に写実的な画風を開拓した絵師、円山応挙によるものです。
例えば「鶴之間」では、二種類の鶴が丁寧に描き分けられ、それぞれの特徴が正確に表現されています。
応挙の写実は「虎之間」ではやや例外で、描かれた虎達は、思いのほか、丸々と愛らしい姿をしています。虎は日本に生息していなかったため、応挙は猫を参考に描いたと言われています。
表書院の庭では、神事として蹴鞠が行われることもあります。
蹴鞠をする鞠場は、四種類の木で囲まれており、神々がそこに座り蹴鞠を見守ると考えられています。
どうぞ表書院に訪れ、ゆっくりご覧ください。
ここから御本宮まで、あと308段です。
(次は、休憩できるカフェ「神椿」です。)
神椿
参道を登る参拝者たちは、昔からこのあたりでひと息ついてきました。
江戸時代中期(1797年)には参拝者のための茶屋が建てられ、現在は平成19年(2007年)にオープンしたカフェ「神椿」として親しまれています。
店内では、フランス料理に着想を得た軽食や、彩り豊かなデザートを楽しむことができます。食材には地元産のものが多く使われています。
建物は斜面の下に埋め込むように造られており、参道からも店内からも、広々とした景色を眺めることができます。
明るく開放的な店内の窓からは、ヤマガラと呼ばれる、オレンジと黒の小さな鳥が暮らす森が見渡せます。
多くの参拝者の思い出に残る場所であると同時に、地元の人々にも親しまれている憩いのスポットです。
ここから御本宮まで、あと285段です。
(次は、境内でもひときわ大きな建物、旭社です。)
旭社
目の前にそびえ立つ、精巧な彫刻が施された建物が、「旭社」です。その高さは約25メートル。あまりの壮麗さに、ここが旅の目的地だと勘違いしてしまう参拝者もいるほどです。
「旭社」は、もともと大きな仏像を祀っている金堂でした。
金堂の建設には40年もの歳月がかかり、江戸時代後期(1845年)にようやく完成しました。
しかしその後、金刀比羅宮は神社となり、多くの仏教的要素が取り除かれました。
旭社は取り壊されることなく、神社の社殿として使われることとなりました。
現在は、神道の中でも最も古い神の一柱とされる天御中主神をはじめ、多くの神々が祀られています。
外壁には、精巧な彫刻がびっしりと施されています。例えば軒裏には渦巻く雲の紋様が広がっています。尾垂木や壁面には、実在の動物から神話上の生き物までが彫刻されています。
モチーフの多くは縁起の良いものであり、屋根の妻飾りの下に彫刻された鶴と亀は長寿を表しています。
側面に彫られた魚や水に関わる生き物の彫刻は、火災から建物を守る意味が込められています。
一階は広々とした、開放的な拝殿です。
巨大な屋根と、一万枚の銅板瓦は、上層に隠された巧妙な桔木構造によって支えられています。
ここから御本宮まで、あと157段です。
(次は、「賢木門」です。)
「旭社」は現在、大規模な改修工事が行われており、2043年まで予定されています。
賢木門
波打つような屋根が美しいこの門は、「唐門」と呼ばれる、最も格式の高い形式の門です。(16世紀)戦国時代、長曾我部元親によって建てられました。
建設の際、柱の一本が誤って逆さに立てられてしまい、「逆木門」と呼ばれるようになったと伝えられています。
明治12年(1879年)の修復時に、「逆さ」を意味する字を「知恵」を表す賢いという漢字に改めましたが、読み方は変わっていません。
この「逆木門」をくぐると、御本宮まではあと143段。
あと少しですが、道中にはもう一つ、面白い仕掛けがあります。
これまで登り続けてきた石段の途中に、たった一段だけ下がる段があります。
もともと石段は786段でしたが、「7・8・6」は「なやむ」と読めるため、この語呂を避けるために一段下がる段を加えられたと考えられています。その結果、「786段上って、1段下がる」ことで、「785段」と数えられるようになったのです。
お手水(手水舎)+御前四段坂
神社では、本殿に向かう前に、手と口を清めるのが習わしです。現在の「手水舎」は、もともと御本宮の北側にありましたが、昭和5年(1930年)に展望台が造られた際、ここへ移されました。
いよいよ、御本宮まで、あと少しです。
御本宮へ続く最後の133段は、最も勾配のきつい、「御前四段坂」と呼ばれる石段です。途中には二つの小さな社があり、一社は商売繁盛、もう一社は五穀豊穣の神を祀っています。これらが、御本宮手前の最後の末社です。
御本宮
「御本宮」へようこそ。何世紀にもわたり、多くの参拝者がこの場所を目指して長い石段を登ってきました。
この地が信仰を集めてきた歴史は、3000年以上前にさかのぼるとも言われています。
現在の「御本宮」は、明治11年(1878年)に建てられました。神仏分離政策のもと、神社として再建され、当時としては斬新な意匠が取り入れられています。
華やかな彫刻や彩色は抑えられ、蔓模様の飾り金具や、軒下の斗供は、丸みを帯びた形状ではなく角張った形で統一されています。建物全体に使われている檜材は、現在、経年により少し黒っぽくなっていますが、当時は、純白に近い白色をしていたと考えられています。屋根は、檜の皮を使った檜皮葺で、33年ごとに葺き替えられています。
境内には、動物をモチーフとした建造物が多く建てられていますが、この御本宮は、金刀比羅宮を象徴する桜を装飾に用いています。御本宮内部の天井には蒔絵を施した桜が描かれ、外壁にも満開の桜があしらわれています。
「御本宮」には、二柱の神が祀られています。一柱は、自然の力を司り、特に航海の守護神として信仰されてきた大物主神。そして、もう一柱は、崇徳天皇です。
保元の乱に敗れ、この地に流された崇徳天皇は、怨霊となり、数々の天災をもたらしたと伝えられています。崇徳天皇の霊は、日本の守護神として祀られたことで、ようやく鎮まったと言われています。
崇徳天皇は、さらに138段の階段を上がったところにある白峰神社という摂社にも祀られています。
「御本宮」に向かって左側のにある屋根付き渡り廊下は、御本宮の改修時に主祭神を一時的にお祀りする御別宮へと繋がっています。こんぴらさんが、かつて金毘羅大権現と呼ばれていた時代、この場所は観音菩薩を祀る寺院でした。現在、この御別宮は大物主神の配偶神である三穂津姫命を祀っています。
「御本宮」参拝はこんぴら詣での目的地ですが、さらに、「展望台」、「白峰神社」、「奥社」まで音声ガイドは続きます。
展望台
この「展望台」からは、北東に瀬戸内海を望むことができます。
讃岐平野の田園風景や街並みの中に、円錐形の飯野山が見えるでしょう。飯野山は、富士山に形が似ていることから、「讃岐富士」とも呼ばれています。
この「展望台」は、かつては断崖が迫り、通行もままならない場所でしたが、昭和5年(1930年)に展望台が造られ、参拝者が安全に景色を楽しめるようになりました。
ここから奥社までは、さらに583段の階段が続きます。
この音声ガイドは、木々が生い茂る細い参道を進んで、奥社まで続きます。
白峰神社
御本宮からさらに石段を登ると、「白峰神社」があります。大正2年(1913年)に建てられ、崇徳天皇を祀っています。
崇徳天皇は平安時代1123年から1141年まで在位し、その後退位を余儀なくされました。
数年後、権力奪取のためクーデターを企てましたが、失敗に終わり、京の都から現在の香川県内にある白峯という町に流されました。その町がこの神社の名の由来となっています。
讃岐へ流された崇徳天皇は、仏教に深く帰依し、多くの経典を書き写しました。
彼は経典が京都に安置されることを望みましたが、当時の天皇からは拒否されてしまい、崇徳天皇は激怒しました。
彼の死後、数世紀にも渡り、崇徳天皇の命日付近に災厄や争いが頻繁に発生したため、怨霊伝説が広まっていきました。
明治になって(1868年)、明治天皇は崇徳天皇を日本の守護神として京都に祀ることで、その霊を鎮めました。
琴平山の白峰神社は、香川県内に点在する崇徳天皇を祀る数多くの神社の一つです。
「白峰神社」の赤と白の配色は、神社の典型的な特徴です。伝統的に赤漆には辰砂という鉱石が含まれており、この鉱石は鮮やかな赤色を現すだけでなく、木材を害虫や腐朽から守る役割を果たしています。また邪気を祓うとも信じられていました。一方、白は清浄さと神聖さを象徴する色です。
奥社まで、あと445段です。
厳魂神社(奥社)
おめでとうございます。
ここが金刀比羅宮境内で最も高い場所、「厳魂神社」、別名・奥社です。
ここに祀られているのは、(16世紀)戦国時代に金毘羅大権現の別当を務めた金剛坊宥盛、厳魂彦命です。生前、こんぴらさんを守り続けることを誓い、
伝説によると天狗に変身したといわれています。
神社脇の崖の上には、二種類の天狗の面が掲げられています。
多くの神社が日の出の方向、東を向いて建てられる中、この神社は南、こんぴらさんの御本宮の方向を向いて建てられています。これは、厳魂彦命が愛する神社を永遠に見守るという誓いを表しています。
これで登りは終わりです。
どうぞ下り道は足元に気をつけながら、行きとは違う表情の参道もお楽しみください。
音声ガイドをお聴きいただき、ありがとうございました。
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